日本では年末年始になると最も人気の高まるドラマが時代劇の「忠臣蔵」(ちゅうしんぐら)です。テレビ番組、映画、演劇など、様々な舞台で取り上げられます。テレビでは特別番組として放送されます。その年に最も活躍した俳優や歌手が抜擢され、ドラマを演じます。
忠臣蔵は、江戸時代(1603―1868)の中期に実際にあった赤穂浪士(あこうろうし)の物語です。赤穂浪士とは、赤穂藩の元サムライたちで、幕府によって解雇された無所属の浪人たちのことです。藩とは今でいう県のことです。忠臣蔵は実話で、サムライの見本として、日本では三百年以上も語り継がれ、またドラマとして演じられているのです。
赤穂藩(あこうはん)は今の関西の兵庫県にありました。そこのサムライは、1701年3月14日に発生した事件をきっかけにして、失業し、浪人になってしまいました。その事件のことを、「松の廊下(まつのろうか)事件」と呼びます。
全国の藩の大名(だいみょう=知事に相当)は、1年毎に首都の江戸(えど)にあった江戸城で、武士のトップであった将軍のために勤務しなければなりませんでした。赤穂藩の大名である浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)も江戸城に勤務していました。そして、将軍と天皇との友好の儀式の準備をしているとき、吉良上野介(きらこうずけのすけ)というサムライが「なんて要領が悪いのか」とあざ笑いました。これに怒った浅野内匠頭が刀を抜いて、吉良上野介に切り付けました。
このとき近くにいた別の侍が「殿中でござる!」(でんちゅうでござる!)と浅野を止めました。この言葉の意味は、「将軍のいる城の中ですよ。そこで争いごとをしてはいけません」という意味です。それでも、浅野は刀を止めず、吉良は背中と額に傷を負いました。
もともと吉良と浅野は、仲が悪かったようです。浅野は江戸の消防署長をしていたことがあります。その時、大火事が発生し、吉良の家が焼け落ちてしまったのです。このため吉良は、浅野の手腕に疑いを持ち、また、怨念を抱いていたようです。
しかし、江戸城の中では、絶対に刀を抜いて争ってはいけないというルールがあります。それは、将軍に刀を向けることになるのです。浅野内匠頭は、そのルールを犯してしまったのです。しかも、吉良は浅野よりも階級が上のサムライでした。こういった不祥事が、将軍と天皇との儀式の準備中に起きてしまったのです。この事件の話を聞いた将軍は「神聖な儀式が汚された」と激怒し、浅野内匠頭に切腹を命じました。つまり死刑です。そして、その日の夕方、浅野内匠頭は切腹しました。
松の廊下の事件が赤穂藩(あこうはん)に伝わると、浅野に仕えていたサムライたちは驚きました。自分たちの殿様が切腹して死んでしまったのです。その後、赤穂藩のサムライたちは、幕府に対して、浅野内匠頭の弟である浅野大学(あさの・だいがく)が藩を受け継ぐことを強く要請しました。ところが、将軍は江戸から別の大名と多数のサムライを送り込みました。浅野大学は父の後を継げなかったのです。そして、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)に仕えていたサムライたちは、解雇され、浪人になってしまいました。
赤穂藩の浪人たちにとっては、浅野大学が浅野内匠頭の跡を継げず、自分たちが失業してしまったことだけが問題ではありませんでした。吉良上野介(きらこうずけのすけ)が、浅野内匠頭の攻撃に「無抵抗」だったことが褒められ、全く罰を受けなかったことが悔しかったのです。
そこで、赤穂藩の浪人、すなわち赤穂浪士たちは、自分たちの殿様のあだ討ちを決意しました。あだ討ちと言うのは、自分の大切な人が殺された時に、殺した相手を殺すことです。これは江戸時代には、絶対にやってはいけないことでした。現代と同じで、事件の裁判と刑罰は幕府が行うことになっていたのです。もし、あだ討ちをすれば、死刑になったのです。
それでも大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)を代表とする赤穂浪士たちは、納得ができませんでした。そして、総勢47人の赤穂浪士たちは、自分たちが死刑になることを覚悟しながら、綿密な計画を経て1702年1月20日(旧暦12月14日)に吉良上野介の家に押し入り、吉良の首を取りました。松の廊下事件から9か月後のことです。首を取ると、そのまま浅野の墓に捧げました。
この赤穂浪士たちのあだ討ちに関しては、サムライが自分たちの仕える殿様への忠義を尽くした見本とする評価があり、死刑にするのは首謀者の大石など一部のサムライで良いのではという議論もあったようです。しかし最終的に、「切腹してこそサムライの誉れ」との判決が下されました。そして3月20日(旧暦2月4日)、46人のサムライたちが切腹しました。1人だけは足軽と呼ばれる下級武士であり、サムライ(の階級)ではなかったため、大石の配慮で、討ち入りには参加しなかったことにされたからです。
この元禄赤穂浪士事件(げんろくあこうろうしじけん)は、サムライの殿様に対する忠義の見本として現代まで語り継がれました。その代表的な戯曲は、首謀者であった大石内蔵助の「蔵」の文字を取り、「忠臣蔵」(ちゅうしんぐら)と名付けられました。「忠義を守ったくらのすけたち」という意味です。
忠臣蔵は、歌舞伎の人気戯曲となり、現代でも討ち入りがあった時期になると、テレビ、映画などのテーマになるのです。そしてなんと! ハリウッドのユニバーサル映画社が、アメリカの俳優キヌア・リーブスを起用して、映画「47RONIN」を制作し、2012年11月に公開予定になっています。どうして米国人が出演するのか意味不明です。史実からは離れた、娯楽大作として制作されているようです! by Noboru